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2024.05.30

水泳を通じて得られた、
人生にとってかけがえのない大切なこと

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MY STORY

水泳を通じて得られた、
人生にとってかけがえのない大切なこと

商品やサービスの提供がたくさんの人の手で支えられて成り立っているように、私たち一人ひとりの人生もまた、さまざまな出会い・思いがけないめぐり合わせから生まれた「縁」に支えられています。

そんな「人とのつながり」に焦点を当てて、あらゆる分野で活躍している人たちが経験した、人の縁にまつわる物語をご紹介する「My Story」のコーナー。
今回は、競泳選手として多数の国際大会に出場し、シドニーで開催された大会では銅メダルを獲得。現役引退後はスポーツコメンテーター、タレントとしてご活躍されている田中雅美さんにお話を伺います。

田中 雅美(たなか まさみ)

田中 雅美(たなか まさみ)

1979年生まれ。7歳からスイミングスクールの選手コースで練習を始め、高校1年生の日本水泳選手権では平泳ぎで2冠を達成。高校3年生でアトランタでの国際大会に出場。2000年(大学4年生)にはシドニーでの国際大会に出場し、平泳ぎ個人戦は100mで6位、200mで7位に。女子400mメドレーリレーでは大西順子選手と水泳部の後輩であった中村真衣選手、源純夏選手とともに銅メダルを獲得した。
その後はアメリカに留学して鍛錬を重ね、2004年アテネでの国際大会に出場。200m平泳ぎで4位という成績を残し、現役を引退。引退後はスポーツコメンテーターとしてメディア活動のほか、水泳講師として全国各地での講演なども行っている。

田中さんと「ニチレイ」

田中さんがニチレイチャレンジに参加された際のお写真

田中さんがニチレイチャレンジに参加された際のお写真

水泳の普及活動に携わる中で、ニチレイさんが協賛する「ニチレイチャレンジ泳力検定」(※1)で開催された水泳教室に講師として参加したことが思い出されます。水泳は何歳になっても挑戦できるスポーツです。泳力検定を通じて今の自分を知ることで、楽しみながら記録にチャレンジしている様子を見て、とても良い取り組みだと感じました。子どもたちは水泳をとても楽しんでくれていましたし、その姿を見守る保護者の方々も楽しそうで、素敵な時間になりました。

※1「ニチレイチャレンジ泳力検定」…2004年からニチレイが支援する、(公財)日本水泳連盟認定の泳力検定。泳力に関する基準を全国統一で定め、ジュニアからマスターまでの幅広い水泳愛好者が、自分の実力に合わせて目標を設定できる。2023年度は延べ34,000人以上が参加し、全国各地で開催されている。

「水で遊ぶ」から「水泳」の世界へ

潜水したり、でんぐり返りをしてみたり、ぷかぷか浮かんでみたり。
幼いころから、水の中は楽しくて、気持ち良くって、だいすきでした。

小学校に上がってからは、少し頑張って選手コースで水泳を学び始めました。
でも、選手として高みを目指していたというよりは、自己ベストを更新できたり、大会で順位を上げられたり、自分の頑張り次第で結果につなげられる感覚が楽しかったんですよね。
だから、負けず嫌いではあったのかもしれません。
でも、誰に負けたとかではなく、自分が立てた目標をクリアできなかったとか、勝てるはずだったのに諦めてしまったとか、自分自身への悔しさから頑張れていたような気がします。

中学を卒業するとき、スクールのコーチに、東京で本格的な練習をしないかと勧めていただきました。
父は乗り気ではなさそうでしたが、陸上選手で国体出場経験がある母は「できるところまでやってみたら」という感じで。
ただ、2人とも口を揃えて「最終決定は自分でしなさい」と言ってくれていました。

それまで北海道から出たことがなかった当時15歳の私が、単身で東京に。
すぐに決断を下すことはできませんでした。
ですので色んな人に相談しましたが、心配の声もありつつ、大半が応援してくれたと記憶しています。

そうした声に背中を押され、悩みに悩んだ結果、私に期待を寄せてくれている人たちのためにも、「行かないで後悔したくない」と思った自分のためにも、行くことを決心しました。
このときの私の選択を尊重してくれた両親、周りの方々には感謝しかありません。

厳しい時間をともに過ごした、仲間の存在

親元を離れて生活をしていたものの、孤独を感じることはありませんでした。
というより、感じている暇もなかったというか。
日本代表だらけの環境に身をおいて、記録を持っていることが当たり前で、日々切磋琢磨しあえる仲間たちが常にそばにいる。そんな環境が刺激になり、まっすぐに前だけを見て練習に取り組んでいました。

そして、当時一緒に頑張っていたのが、出会った時にはすでにメダリストで、ずっと憧れていた岩崎恭子選手。同学年の恭子ちゃんと初めてとなるアトランタでの国際大会に出場できたことは忘れられません。
恭子ちゃんとは今も仲良しで、生涯の友人と出会わせてくれた水泳には感謝したいですね。

岩崎恭子選手。1992年バルセロナでの国際大会に出場し、競泳女子200m平泳ぎで当時の記録と自己の生涯ベスト記録を出し、金メダルを獲得。

高校卒業後は、中央大学水泳部に女子一期生として入部。2000年に控えていた国際大会に向けて、日々練習に取り組んでいました。
ここでも、私の支えになったのは仲間たちの存在です。
女子部員はリレーのメンバーとして共に出場した大西順子選手、中村真衣選手、源純夏選手と私の4人だけ。それぞれが自分のフィールドで頑張っている姿に、お互いが刺激を受けていたと思います。

水泳は、勝つも負けるもすべて自分の責任。記録を残した人はそれだけの努力をしていて、純粋にすごいなって思うんですよ。だから、仲間たちのことはライバルというよりは、共に戦う戦友のように思っていました。

そんな尊敬しあえるメンバーと、メダルを取ることができたのはかけがえのない思い出です。
投げ出したくなる時があっても、みんなで国際大会に出る、という目標に向かって「一生懸命の時間」をともに紡いだ仲間との関係性は、今でも大きな財産になっています。

選手時代に感じた「食の重要性」

選手にはシェフがついて食事を管理してくれるというイメージもあるかもしれませんが、私の現役時代は、栄養士さんにアドバイスを受けながら、食べるものは自分で管理していました。
一度、アジア遠征した際にあまり食事を食べられなくなったことがあり、そのまま水泳をしていたらオーバーワークになって体が動かなくなってしまったことがあるんですよね。その時「環境が変わっても、しっかり食事をして栄養を摂れる人が強い」ということを実感しました。
そして、食事の時間はコミュニケーションの時間でもあります。
練習でつらいときも、みんなでご飯を食べることを楽しみに頑張れていました。

「自分を信じる」とは

でも、リレーでメダルを獲ることができた一方で、個人では思うような結果を残すことができなかったんですよね。それは私の心に重くのしかかっていました。
「次の国際大会を目指したい気持ちはある。でも、このままではこれ以上成長できない気がする──」

この時の私は、自分自身と向き合うことが足りていませんでした。
だからこそ、違う環境で一度リセットしてマインドから鍛え直したいと思って、
アメリカという新しい環境に身を置くことにしました。

最初の一年間はカリフォルニアに滞在し、ホストファミリーに紹介してもらったコーチのもとで学びました。
そして、その後はもう一段階ステップアップするためにかねてより学びたいと思っていた、コーチのピートさんにアポイントをとり、その方の元で学ぶことになりました。

この新しい環境は、精神的に私を成長させてくれたことは間違いありません。
しかし、挫折の経験から生まれた恐怖はなかなか拭えませんでした。

自己ベストを持っているにも関わらず、思うような結果を残せなかった。
また失敗するかもしれない。
練習が無駄になるかもしれない。
私は、私のことが信じられない。

タイムが落ちるたびに、私の心は恐怖でいっぱいになりました。
そんな私をみていたピートコーチは、こう言いました。

「泳ぎ終わって、すぐタイム板を見るんじゃない。まずは自分の心に“私は100%の力を発揮できたか”を聞きなさい。タイムを確認するのは、その後だ」。

ハッとしました。
思い返してみると、私はずっと、タイムのことしか考えていなかったんですね。

本当に今の自分にできる最大限のことをやったのか。
今日、100%の力を出し切れたのか。
“今の自分にできることを精一杯やれたかどうか”を自分の胸に問いかける。
できなかったら、「できた」と言える自分になる。
タイムよりも、自分を信じることが大切だと、コーチの言葉で気付かされました。

そうして、次の国際大会が近づくにつれて大きくなっていた不安も、だんだんと自信に変わっていきました。

4年前の悔しさをバネに自分を鍛え直して臨んだレースでしたが、結果は4位。
あと一歩のところで表彰台には届きませんでした。
悔しかったです、とっても。
でも、後悔はありませんでした。その時の100%を出し切ったと、胸を張って言えるから。
誰に何を言われたとしても、私は私のことを信じて、やりきった。
引退最後のレースで、そう思うことができて幸せだったと思います。

一人ひとりの舞台裏を伝えていきたい

引退後は、ラジオをはじめメディア関連のお仕事をいただくようになりました。
スポーツコメンテーターを担当したときは、水泳以外にもプロフェッショナルの世界があり、そこで頑張っている人がいることを知り、ワクワクしました。

そして、こうした人たちをもっといろんな人に知ってもらいたいと思うと同時に、スポーツの世界に長く身を置いていた自分だからこそ、発信できることがあるのではないか、と思ったんですよね。

私が引退した2004年頃は、スポーツニュースは「結果」が全てでした。
メダルの数、タイム、順位……もちろん結果を出した人は出したなりの努力をしています。でも、結果につながらなかったとしても、選手の数だけ、その人の頑張りがある。勝ち負けじゃないところにもドラマはあるんです。

昨今、野球をはじめ、サッカーやバスケットボールなど、スポーツで日本選手が世界に名を轟かせていますよね。そうした彼らの活躍を日々目にしますが、今の時代は結果だけでなく、選手やチームにフォーカスを当てた取り上げ方が増えてきているなと感じます。

2024年はパリで大きな国際大会が開催されます。そうしたスポーツの現場や、スタート台に立つ選手の気持ち、その場に立つに至るまでの人々のストーリーを、今後はもっともっと発信していきたいと思っています。


スポーツはチーム競技でも個人競技でも、1人で成せるものはありません。
仲間や周りの人とのつながりが、人を強くし、向き合わせてくれるのです。

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